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足助 飯盛山 [城・城址]


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愛知県豊田市足助町: 足助町は古くから三州街道(塩の道)の足助宿として栄え、


香嵐渓の紅葉でもよく知られた町で、平成17年4月1日に豊田市に編入された。


香嵐渓の中央にある飯盛山は、標高254mの円錐形の山で古代より神聖な山


として信仰の対象にされ、平安末には期足助重長により飯盛山城が築城された。



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その飯盛山の北西に向いた斜面に昔から自生していたカタクリを保護・育成し、


斜面およそ5,000㎡の群生地に3月中旬~4月上旬頃まで花を咲かせます。


スプリング エフェメラル(早春の妖精)といわれるカタクリは、午後には綺麗に


開花するのですが、雨や曇りの日また低温日には蕾は固く閉じたままの姿です。


受粉の効率が良くないせいでしょうが、無駄な体力を消耗しないエコ植物です。



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高遠城址と進徳館 [城・城址]

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長野県伊那市高遠町:高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、南北朝の頃より


諏訪氏の支族である高遠氏が、この一円を統治していました。


高遠城は、三峰川と藤沢川に挟まれた河岸段丘の突端に築かれた平山城でしたが


明治維新後、廃城となり建物全てが取り壊され、全て民間に払い下げられました。



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城址内の桜は、明治8年(1875)に旧藩士らの手により城下の[桜の馬場]から



移植されたことに始まり代々大切にされ、現在は1500本を数えるこれらの桜は


[タカトウコヒガンザクラ]という固有種で、県の天然記念物に指定されています。



※今年は桜の開花が早く訪れた時は、花びらが乱舞していましたm(__)m



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高遠藩校[進徳館]が創設されたのは万延元年(1860)、就学年齢は


8才~25才で藩士の子弟の殆どは通学し、8~15才までは初年部


16~25才までは中年部で学び学問の修業に励みました。



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国宝 松本城 [城・城址]

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毎年数回出かける長野県ですが、なんとこの歳になって松本城に初めて訪れました。
安土桃山時代末期から江戸時代初期に建造された5重6階の天守は、現存する日本
最古の天守らしく、姿は国宝にふさわしく、凛とした風格で息を呑む美しさでした。
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到着時間が遅かった為に、城内に入るのを断念し堀の周辺から撮影、やはり
ポスター等で見る見慣れたアングルがベストの姿でした。
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北遠江 高根城 [城・城址]

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静岡県浜松市天竜区地頭方、遠江(とおとうみ)最北端に位置する[高根城]は、
 
15世紀前半に地元国人領主[奥山氏]が築いたと考えられ、標高420mの
 
三角山(俗称)の山頂部に築かれていて、水窪(みさくぼ)町中心部並びに
 
北遠江と南信濃を見下ろす事が出来、国境警備が目的で築かれた山城です。
 
 
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 全国的にも珍しい戦国山城ですが、平成15年に復元されたものは、
 
奥山氏築城の原型ではなく、武田側により改築された後のものです。
 
 
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田峯の里 [城・城址]

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愛知県北設楽郡設楽町の寒狭川を見下ろす丘陵 に所在する、戦国時代の山城
 
[田峯城(だみねじょう)]は、文明2年(1470年)菅沼定信により築城されました。
 
戦国時代初期、設楽町近辺は交通の要所であり、東は今川氏・北は武田氏・
 
西は織田氏と有力大名が台頭するなか、常にせめぎ合っていました。
 
 
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 5代目城主の菅沼定忠は、設楽原の戦いに武田方 として出陣しますが大敗し、田峯城に
 
帰城するも、留守居の叔父定直や家臣の謀反にあい入城できず信濃に落ち延びます。
 
天正4年(1576年)7月未明、復讐に燃える定忠は田峯城に斬り込み謀反一族96人を
 
惨殺、天正10年(1582年)定忠も討たれ御家断絶となり田峯城は廃城。
 
 
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比較的に平坦で綺麗に手入れされた長閑な山里でした。復元された山城は少々
 
立派過ぎる感はありましたが、周りに溶け込み素晴らしい景観でした。
 
 
 
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伊予・松山 [城・城址]

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 松山城は、海抜132mの勝山山頂に本丸、中腹に二之丸、山麓に三之丸を置く連郭式平山城で、
 
敵の侵入を防ぐため、二之丸を取り囲むように山腹から本丸にかけて、登り石垣が配置されています。
 
 
城の創設者は、[賤ヶ岳七本槍]で有名な[加藤嘉明]で、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて
 
徳川家康側に従事し、その戦功を認められ20万石となった嘉明は、同年7月に
 
伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央である勝山に城郭を移すため工事を着手し、
 
翌8年(1603)10月に居を新城下に移し、初めて[松山]という名称が公にされました。
 
城全体の完成は寛永4年(1627)頃といわれ、約26年の歳月をかけて築城されました。
 
 
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 日本3古湯と言われる[道後温泉]は、愛媛県松山市に湧出する、日本国内でもひときわ古く
 
3000年もの歴史を持つとされている温泉です。
 
道後温泉本館は、戦前に建築された近代和風建築で、街のシンボル的存在であると共に、
 
1994年に国の重要文化財として指定されました。
 
 
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掛川城下 [城・城址]

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掛川城大手門

発掘調査により、掛川城大手門と番所の位置が、正保年間頃(1644~1647)に

描かれた、正保城絵図の通りであることが明確になったことから、平成7年(1995)

周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に、番所を移築復元しました。

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 嘉永7年(1854)の大地震後に建てられた、時刻を知れせる太鼓を置いていた櫓で

何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。

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城下の明治36年に建てられた、近代和風建築の大日本報徳社と

明治42年に建立された正門には、報徳の教えを象徴している

[道徳門][経済門]と刻まれています。

昭和2年に建てられた鉄筋コンクリート造りの報徳図書館

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巴江(はこう)城址 [城・城址]

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青い海と白い砂浜がどこまでも続く、渥美半島の百々(どうどう)海岸

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田原城は1480年(文明12年)頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城した。

城といっても当時の城は、空堀(からぼり)土塁(どるい)で造られた館でした。

以来70年に渡って栄ましたが、今川義元により攻略され落城、その後

城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で

三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えました。

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渡辺華山は田原藩家老であり、画家としても名を成すと共に蘭学者として

激動の幕末を生き、天保12年(1841)49歳で自刃する。

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巴江(ともえ)神社は、元は児島社という名で城外にあったものを1877年(明治10年)に

現在の地に社殿を造営し、巴江神社と改称しました。

祭神の児島高徳は南朝の忠臣であり、後醍醐天皇が隠岐に流される際に

奪回を試み、それがならないとなるや、天皇御在所の庭に侵入し桜樹に

十字を刻んで忠誠を誓ったと言う伝説があります。

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一足お先に渥美から春の香りをお届け致します。

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国宝・白帝城 [城・城址]

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幸多き新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。

昨年同様、本年もどうぞ宜しくお願い致します。

皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。

犬山頭首工(いぬやま とうしゅこう)ライン大橋は、愛知県犬山市と岐阜県各務原市を

結ぶ延長420mの木曽川の橋で、濃尾用水の可動堤でもあります。

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愛知県犬山市の犬山城は、別名[白帝城]とも呼ばれ、室町時代の天文6年(1537)

織田信康(織田信長の叔父)により、木曽川のほとりの小高い山の上に

建てられた、天守は現存する日本最古の木造天守閣をもつ平山城です。

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尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置する為、国盗りの要所となり城主はめまぐるしく

変わりましたが、江戸時代に入ると尾張藩付家老の成瀬正成が、城主となりましたが

明治維新の廃藩置県で、愛知県の所有となり、明治24年の濃尾地震で半壊、

修復することを条件に、再び成瀬家の所有となり、平成16年に

財団法人に移管するまでは、日本で唯一の個人所有城でした。

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築城当時の歴史ある古木材が多く残されている城内

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伊勢湾台風の際、落雷により枯れた杉の木は、城と同じ高さであった為に

身代わり杉として、地元の住民がしめ縄をし祀っています。

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横須賀城址 [城・城址]

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遠江国城東郡横須賀(静岡県掛川市横須賀)

天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じ

高天神城攻略の拠点として横須賀城の構築を命じた。

横須賀城(別称松尾城)は戦国時代末期、德川勢力と武田勢力との

境界地帯であり激しい攻防が繰り返された。

天正9年(1581)高天神城は落城、横須賀城は南遠州の拠点として

明治維新を迎え、明治6年廃城となり建物は解体された。

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天竜川より運ばれた玉石を用いた構築法で山城と平城の特徴を

併せ持ち通常1つしかない大手門がこの横須賀城には

東西にあり両頭の城といわれた。

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頭上で甲高い異音が響き見上げると、紺碧の空に横須賀凧が泳いでいる。

天正年間(約400年前)戦国時代に敵陣地の測量や密書を送る

手段にされたのが始まりとされている。

カラフルな色彩と長い尾が特徴で種類は20種以上

一つの地域にこれ程の異種凧があるのは稀である。

左が巴(ともえ)と右がとんがり

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二俣城址 [城・城址]

二俣城(ふたまたじょう)は遠江国豊田郡二俣(現・静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)の

天竜川と二俣川に挟まれた、標高90mの台地上に築かれていた山城で

武田氏と徳川氏とがこの城をめぐり激戦を繰り広げた。

徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康が切腹し自害した城として知られている。

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二俣城址から天竜川を望む

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青龍寺

岡崎三郎信康は徳川家康の嫡男として永禄2年(1559)3月6日家康人質の

今川氏支配の駿河で生誕、織田信長の娘 徳姫と共に9歳で結婚

後に不仲から徳姫は父信長への12箇条の手紙の中で実母築山御前と

信康が武田と内通している書かれ、激怒した信長は家康に絶命を命ずる。

家康の正室築山殿は浜松城への道中で殺害、

信康は二俣城にて切腹、享年21歳

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静寂の信康廊と芭蕉の門人晋子(しんし)の句、

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世界のホンダの創業者の本田宗一郎氏が二俣尋常小学校の時、正午の鐘を

30分早く突き早弁当を食べたというエピソードの鐘と

本田宗一郎ものづくり伝承館

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内山真龍(うちやま またつ)元文5年(1740)~文政4年(1821)

江戸時代後期の国学者で遠江国豊田郡大谷村の名主を勤め

宝暦12年(1762)賀茂 真淵に入門し国学を学ぶ、主に歴史地理を

研究し[出雲風土記解]は真龍が国学者として注目された処女作

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遠江 掛川城 [城・城址]

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姿の美しさから「東海の名城」とうたわれた掛川城、戦国時代に山内一豊が

城主となり天守を建立した。天守台から眼下に広がる

緑の多い美しい掛川の街並みが一望できる。

平成6年4月、当時の美しさそのままに

日本初の本格木造り天守閣として復元された。

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明治36年(1903)、代々掛川城下の中町で葛布問屋「松屋」を営んでいた

松本家(当主・義一郎氏)が、竹の丸に本宅を建てた。

葛布は掛川宿の葛布問屋によって江戸等へ出荷されていたが幕末になり

乱れた流通機構を正す為掛川藩は、安政5年に取り扱い問屋を

指定して、指定問屋以外の商人が他領へ販売することを禁止する。

昭和11年(1936)、松本家が東京へ転居するにあたり

竹の丸の邸宅は当時の掛川町に寄贈された。

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近代豪商の邸宅、主屋と離れ・離れ2階の貴賓室から眼前に掛川城

葛布と織り機

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二宮金次郎の像で知られる二宮尊徳が唱えた報徳思想

[至誠][勤労][分度][推譲]の普及と実践を行う報徳社の本社

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龍華院大猷院霊屋(りゅうげいん だいゆういん おたまや)

明暦2年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府にに願い出て

徳川3代将軍家光の霊牌を祀る為に建立した。

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長篠城址 [城・城址]

天正3年(1575)5月、三河国(現愛知県新城市長篠)長篠城をめぐり

織田・徳川連合軍3万8000と武田勝頼軍1万5000との間で

勃発した長篠設楽原(ながしのしたらがはら)の戦いは武田軍が

5月20日長篠城の包囲を解き、連合軍の布陣する設楽原に進出

5月21日夜明けと共に織田・徳川軍の陣地に突入し

壮絶に戦うが数千挺の銃撃にさらされ

武勇の将士の多くを失い勝頼は数騎に守られ敗走した。

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天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め

内側から鉄砲で狙い撃ちにする為造られた。

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 日本の滝100選にも選ばれている[阿寺の七滝]

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 高級ブランド三ケ日みかん

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