足助 飯盛山 [城・城址]
高遠城址と進徳館 [城・城址]
国宝 松本城 [城・城址]
北遠江 高根城 [城・城址]
田峯の里 [城・城址]
伊予・松山 [城・城址]
掛川城下 [城・城址]
掛川城大手門
発掘調査により、掛川城大手門と番所の位置が、正保年間頃(1644~1647)に
描かれた、正保城絵図の通りであることが明確になったことから、平成7年(1995)
周辺の区画整理により、本来の位置から約50メートル北に、番所を移築復元しました。
嘉永7年(1854)の大地震後に建てられた、時刻を知れせる太鼓を置いていた櫓で
何回かの移転の末、昭和30年(1955)に三の丸から移築されました。
城下の明治36年に建てられた、近代和風建築の大日本報徳社と
明治42年に建立された正門には、報徳の教えを象徴している
[道徳門][経済門]と刻まれています。
昭和2年に建てられた鉄筋コンクリート造りの報徳図書館
巴江(はこう)城址 [城・城址]
青い海と白い砂浜がどこまでも続く、渥美半島の百々(どうどう)海岸
田原城は1480年(文明12年)頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城した。
城といっても当時の城は、空堀(からぼり)土塁(どるい)で造られた館でした。
以来70年に渡って栄ましたが、今川義元により攻略され落城、その後
城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で
三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えました。
渡辺華山は田原藩家老であり、画家としても名を成すと共に蘭学者として
激動の幕末を生き、天保12年(1841)49歳で自刃する。
巴江(ともえ)神社は、元は児島社という名で城外にあったものを1877年(明治10年)に
現在の地に社殿を造営し、巴江神社と改称しました。
祭神の児島高徳は南朝の忠臣であり、後醍醐天皇が隠岐に流される際に
奪回を試み、それがならないとなるや、天皇御在所の庭に侵入し桜樹に
十字を刻んで忠誠を誓ったと言う伝説があります。
一足お先に渥美から春の香りをお届け致します。
国宝・白帝城 [城・城址]
幸多き新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。
昨年同様、本年もどうぞ宜しくお願い致します。
皆様のご健康とご多幸をお祈り致します。
犬山頭首工(いぬやま とうしゅこう)ライン大橋は、愛知県犬山市と岐阜県各務原市を
結ぶ延長420mの木曽川の橋で、濃尾用水の可動堤でもあります。
愛知県犬山市の犬山城は、別名[白帝城]とも呼ばれ、室町時代の天文6年(1537)
織田信康(織田信長の叔父)により、木曽川のほとりの小高い山の上に
建てられた、天守は現存する日本最古の木造天守閣をもつ平山城です。
尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)の国境に位置する為、国盗りの要所となり城主はめまぐるしく
変わりましたが、江戸時代に入ると尾張藩付家老の成瀬正成が、城主となりましたが
明治維新の廃藩置県で、愛知県の所有となり、明治24年の濃尾地震で半壊、
修復することを条件に、再び成瀬家の所有となり、平成16年に
財団法人に移管するまでは、日本で唯一の個人所有城でした。
築城当時の歴史ある古木材が多く残されている城内
伊勢湾台風の際、落雷により枯れた杉の木は、城と同じ高さであった為に
身代わり杉として、地元の住民がしめ縄をし祀っています。
横須賀城址 [城・城址]
遠江国城東郡横須賀(静岡県掛川市横須賀)
天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じ
高天神城攻略の拠点として横須賀城の構築を命じた。
横須賀城(別称松尾城)は戦国時代末期、德川勢力と武田勢力との
境界地帯であり激しい攻防が繰り返された。
天正9年(1581)高天神城は落城、横須賀城は南遠州の拠点として
明治維新を迎え、明治6年廃城となり建物は解体された。
天竜川より運ばれた玉石を用いた構築法で山城と平城の特徴を
併せ持ち通常1つしかない大手門がこの横須賀城には
東西にあり両頭の城といわれた。
頭上で甲高い異音が響き見上げると、紺碧の空に横須賀凧が泳いでいる。
天正年間(約400年前)戦国時代に敵陣地の測量や密書を送る
手段にされたのが始まりとされている。
カラフルな色彩と長い尾が特徴で種類は20種以上
一つの地域にこれ程の異種凧があるのは稀である。
左が巴(ともえ)と右がとんがり
二俣城址 [城・城址]
二俣城(ふたまたじょう)は遠江国豊田郡二俣(現・静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)の
天竜川と二俣川に挟まれた、標高90mの台地上に築かれていた山城で
武田氏と徳川氏とがこの城をめぐり激戦を繰り広げた。
徳川家康の嫡男、岡崎三郎信康が切腹し自害した城として知られている。
二俣城址から天竜川を望む
青龍寺
岡崎三郎信康は徳川家康の嫡男として永禄2年(1559)3月6日家康人質の
今川氏支配の駿河で生誕、織田信長の娘 徳姫と共に9歳で結婚
後に不仲から徳姫は父信長への12箇条の手紙の中で実母築山御前と
信康が武田と内通している書かれ、激怒した信長は家康に絶命を命ずる。
家康の正室築山殿は浜松城への道中で殺害、
信康は二俣城にて切腹、享年21歳
静寂の信康廊と芭蕉の門人晋子(しんし)の句、
世界のホンダの創業者の本田宗一郎氏が二俣尋常小学校の時、正午の鐘を
30分早く突き早弁当を食べたというエピソードの鐘と
本田宗一郎ものづくり伝承館
内山真龍(うちやま またつ)元文5年(1740)~文政4年(1821)
江戸時代後期の国学者で遠江国豊田郡大谷村の名主を勤め
宝暦12年(1762)賀茂 真淵に入門し国学を学ぶ、主に歴史地理を
研究し[出雲風土記解]は真龍が国学者として注目された処女作
遠江 掛川城 [城・城址]
姿の美しさから「東海の名城」とうたわれた掛川城、戦国時代に山内一豊が
城主となり天守を建立した。天守台から眼下に広がる
緑の多い美しい掛川の街並みが一望できる。
平成6年4月、当時の美しさそのままに
日本初の本格木造り天守閣として復元された。
明治36年(1903)、代々掛川城下の中町で葛布問屋「松屋」を営んでいた
松本家(当主・義一郎氏)が、竹の丸に本宅を建てた。
葛布は掛川宿の葛布問屋によって江戸等へ出荷されていたが幕末になり
乱れた流通機構を正す為掛川藩は、安政5年に取り扱い問屋を
指定して、指定問屋以外の商人が他領へ販売することを禁止する。
昭和11年(1936)、松本家が東京へ転居するにあたり
竹の丸の邸宅は当時の掛川町に寄贈された。
近代豪商の邸宅、主屋と離れ・離れ2階の貴賓室から眼前に掛川城
葛布と織り機
二宮金次郎の像で知られる二宮尊徳が唱えた報徳思想
[至誠][勤労][分度][推譲]の普及と実践を行う報徳社の本社
龍華院大猷院霊屋(りゅうげいん だいゆういん おたまや)
明暦2年(1656)掛川藩主北条氏重が幕府にに願い出て
徳川3代将軍家光の霊牌を祀る為に建立した。