静岡県磐田市見附 旧赤松邸

赤松則良は天保12年(1841)幕臣 吉沢雄之進の次男として生まれ

祖父の跡を継いで赤松姓をなのった。

安政5年(1858)日米修好通商条約が締結されると、則良は勝海舟らと

共に咸臨丸で批准書換の使節団に随行、文久2年(1862)オランダへ

留学し造船技術を学んだ。

大政奉還後、徳川家に縁のある見附(現・磐田市)に移住、その後則良は

勝海舟の勧めもあり明治新政府に仕え、明治20年(1887)海軍

中将男爵となり大日本帝国海軍の拡充、強化に貢献した。

  赤松則良の銅像と内蔵

      

北土蔵(米蔵)と内部

赤松登志子は明治4年(1871)赤松則良の長女として生誕

明治22年(1889)2月森林太郎(鴎外)と結婚、翌年9月

長男於莬(おと)を出産し、同年離婚

明治32年(1900)28歳で病死

       

旧赤松家記念館には旧赤松家に関する文化財や寄贈資料等を展示

咸臨丸は幕府の船として始めて太平洋を往復した 、勝海舟を船将とし

中浜(ジョン)万次郎や福沢諭吉らも乗船していた。