愛媛県新居浜市の山麓にあった[別子銅山]の歴史は、元禄3年(1690)赤石山系の
 
銅山嶺南斜面で、露頭が発見された事に始まります。
 
 
         
 
 
 
 
翌年から住友により採掘が開始され、昭和48年(1973)の閉山までの283年間で、
 
坑道の総延長は約700km、採鉱場所は海面下約1,000mに達し、総出鉱量は
 
約3,000万t、産銅量は約65万t産出しました。
 
 
 
 
          
 
 
 
 
 
 山頂から掘り続けられた別子銅山は、次第に中心地を下へ下へと移動していきました。
 
東平(とうなる)は、標高750m前後の山中にあり、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで、
 
別子銅山の採鉱本部が置かれた場所です。
 
最盛期には、5,000人余りもの銅山関係者とその家族が住み天空の町として賑わっていました。
 
 
開山前、一帯はブナなど紅葉樹林におおわれた豊かな森でしたが、採掘・精錬・民家の薪として
 
膨大な数が伐採されると共に、精錬所からの亜硫酸ガスにより荒廃、山は地力を失いました。
 
明治32年(1899)の台風により山津波が発生、死者513名 倒壊家屋122戸という
 
未曾有の大災害をもたらしました。  明治後半、支配人に就任した[伊庭 真剛]が、
 
毎年100万本にも及ぶ植林計画を立案し実行されました。
 
現在は自然の回復力と人々の努力により、銅山の名残は跡形もなく森に呑み込まれました。
 
 
 
 
           
 
 
 
 
 マイントピア別子