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旧津金学校 [資料館]

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山梨県北杜市須玉町の八ヶ岳南麓に明治期・大正期・昭和期の3世代校舎が並んだ
 
旧津金学校、現在は明治校舎を歴史資料館[津金学校]、大正校舎は体験施設[大正館]、
 
昭和校舎はレストランと宿泊施設を備えた[おいしい学校]として生まれ変わっています。
 
 
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旧津金学校の藤村式校舎は、明治7年に着工し明治8年10月21日に落成しました。
 
甲府市のある旧睦沢学校等とともに、現存する日本最古の年代の擬洋風式建築です。
 
 
 
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旧木澤小学校 [資料館]

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 長野県飯田市南部、天竜川の支流[遠山川]に沿って広がる、山と渓谷に囲まれた[遠山郷]。
 
其の地域の木沢地区に、昭和7年に建てられた木造の校舎が、昔の姿をそのまま残しています。
 
 
昭和20年のピーク時には、310名の全校生徒が通っていましたが、その後は減少の一途をたどり
 
平成3年には僅か26名となり其の年に休校、後に正式に廃校となりました。
 
 
 
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 校舎内は開放されており見学自由、住民と観光客の交流の場として活用され、嘗ての小学校ゆかりの品々や、
 
 
愛好家自慢の南アルプスの写真等が展示され、当時の生徒たちの様子を窺い知る事ができます。
 
 
 
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旧王子製紙製品倉庫 [資料館]

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静岡県浜松市天竜区春野町は、静岡県の西部に位置する山の町で、秋葉原の由来となった
 
[秋葉山本宮神社]が立地する豊かな緑につつまれた長閑な町、浜松市が政令指定都市
 
移行に伴い、2005年7月1日に周辺10市町村と共に、浜松市へ編入されました。
 
 
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 当時原料となるモミの木や栂の原生林が有ったことや、近くの気田川(けたがわ)の
 
水力を活用できたことから、明治22年(1889年)に日本で最初の木材パルプ工場
 
[王子製紙気田工場]が完成、最盛期には300名を越える従業員がいましたが、
 
原木を伐採し尽くし止むを得ず、大正12年(1923年)に工場は閉鎖されました。
 
 
 
現春野中学校敷地内に、当時使用されていた赤レンガの建物で
 
[旧王子製紙製品倉庫]が現存しています。
 
 
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伊予絣 [資料館]

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愛媛県松山市で製造されている[伊予絣(いよがすり)]の創始者[鍵谷カナ(1782~1864)]女は、
 
天明2年(1782)に温泉郡垣生村(はぶむら)今出(いまず)に生まれ、18歳頃に農家の藁屋根を
 
葺き替える時、藁を押さえた竹が煤けて縄目の模様が浮き出ている事をヒントに考案。
 
 
当時は発祥地名から[今出絣]と云われていましたが、後に[伊予絣]と呼ばれるようになり
 
日本3大絣(久留米・備後)のひとつとなり、広く全国に知れ渡りました。
 
 
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絣(かすり)は、[カスル]から転化した言語と言われ、藍の先染め織物であるため、数百本の糸を
 
一緒に括る性質上、染めの段階において[カブレ]や[差し込み]が出来ます。
 
織りの工程で模様を合わせて調整しますが、絣にあしが出て[カスレ]が出来てしまい、この[カスレ]が
 
[カスリ]に転化したものと言われていますが、そのズレが独特の美しさを生み出しています。
 
 
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天空の産業遺産 [資料館]

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 愛媛県新居浜市の山麓にあった[別子銅山]の歴史は、元禄3年(1690)赤石山系の
 
銅山嶺南斜面で、露頭が発見された事に始まります。
 
 
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翌年から住友により採掘が開始され、昭和48年(1973)の閉山までの283年間で、
 
坑道の総延長は約700km、採鉱場所は海面下約1,000mに達し、総出鉱量は
 
約3,000万t、産銅量は約65万t産出しました。
 
 
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 山頂から掘り続けられた別子銅山は、次第に中心地を下へ下へと移動していきました。
 
東平(とうなる)は、標高750m前後の山中にあり、大正5年(1916)から昭和5年(1930)まで、
 
別子銅山の採鉱本部が置かれた場所です。
 
最盛期には、5,000人余りもの銅山関係者とその家族が住み天空の町として賑わっていました。
 
 
開山前、一帯はブナなど紅葉樹林におおわれた豊かな森でしたが、採掘・精錬・民家の薪として
 
膨大な数が伐採されると共に、精錬所からの亜硫酸ガスにより荒廃、山は地力を失いました。
 
明治32年(1899)の台風により山津波が発生、死者513名 倒壊家屋122戸という
 
未曾有の大災害をもたらしました。  明治後半、支配人に就任した[伊庭 真剛]が、
 
毎年100万本にも及ぶ植林計画を立案し実行されました。
 
現在は自然の回復力と人々の努力により、銅山の名残は跡形もなく森に呑み込まれました。
 
 
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 マイントピア別子
 
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二川宿本陣資料館 [資料館]

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 江戸時代、江戸と京を結ぶ東海道は、最も重要な街道であり、東海道53次の日本橋から数えて
 
33番目の二川宿には、大名や公家など賢人が泊まる本陣が有りました。
 
旧東海道の宿場に2ヶ所しか現存していない本陣の1つが[二川宿本陣]で、貴重な建物です。
 
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 愛知県豊橋市二川町にある[二川宿本陣]は、文化4年(1807)から明治3年(1870)の
 
本陣廃止まで、本陣職を務めた馬場家の建物でです。在職中の約60年間に何度も
 
増改築が行われ、今も当時の姿のまま、江戸時代の情緒を残しています。
 
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 旅篭屋[清明屋]は文化14年(1817)に建てられ、主屋・繋ぎの間・奥座敷で構成された
 
旅籠屋様式を残しています。平成14年より改修復元工事を行い、江戸末期の姿に復元しました。
 
 
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豊橋市[二川宿本陣資料館]は 、二川宿本陣を保存活用し、見学出来る資料館として、平成3年8月に開館し、
 
平成17年4月には、旅籠屋[清明屋]も同時に見学できる資料館となりました。
 
 
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 2月1日~3月16日までの間、[ひなまつり]展が開催されていて、市民から寄贈された段飾りや
 
地元の愛好家の方々が制作した吊るし雛など、約4千点が展示されています。
 
 
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