愛知県西尾市吉良町萩原の[糟谷家]は、江戸時代を通じてこの地方の地主として
 
また地場産業であった[三河木綿]の総問屋を営み栄えた旧家です。
 
代々縫右衛門(ぬいえもん)を名乗り、領主の大多喜藩(千葉県)大河内松平家の
 
御用達頭取として、苗字帯刀を許されていました。
 
 
 
 
           
 
 
 
 
 
 永正2年(1505)に、初代重賢が萩原村に移住し帰農したとされ、以後14代重義が
 
昭和56年に没するまで、470年間にわたって当地に在住していました。
 
 
 
 
     
 
 
 
 
 庭園は、幕末に親交のあった尾州久田流の久田栄甫によって表千家
 
[残月の間]の写しが建てられ、全体が茶庭化しました。
 
 
 
 
           
 
 
 
 
 
主屋・長屋門・土蔵・屋敷神等の建物が現存し、長屋門は糟谷家が御用達を務めた大多喜藩の
 
小牧陣屋(吉良町小牧)から移築したといわれ、武家屋敷の風格が漂っています。