馬籠宿~妻籠宿 Ⅱ [街道]
標高790mの馬籠宿を越えると中山道は、妻籠宿まで約6km、杉木立の
緩やか下り坂続き、小鳥の囀りに癒やされながら足取りも軽やかに進めます。
頻繁に大名や姫様が街道を往来していた往時にはあり得なかった倒木・・・・
間もなく街道は、馬籠宿と妻籠宿の中間に位置する[立場茶屋]にさしかかります。
[一石栃(いちこくとち)]は、行き交う旅人に休息と利便を与える茶屋で、往時は
7軒程あり栄えていたそうですが、今はこの牧野家住宅の1軒だけとなっている。
木立の中を下る地道の街道は足に優しく非常に歩きやすい、幾つかの沢を横切り
街道を少し離れ、宮本武蔵が修行した?という[男滝・女滝]へ寄り道しました。
※三脚は不携帯のため手持ちで撮影、左の男滝で男性が滝行中で岩で隠しました。
やがて街道もアスファルトの舗装道路に合流し、長野県南木曽町の[妻籠宿]に。
全国で初めて古い町並みを保存した宿場町で、保存状態の良い家並みが現存し、
昭和51年(1976)に国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。
馬籠宿から妻籠宿 Ⅰ [街道]
岐阜県中津川市馬籠:近代日本を代表する文豪の一人島崎藤村の出身地[馬籠宿]、
全長約600mの石畳が敷かれた坂の両側に、石垣を築き屋敷を造った宿場です。
馬籠宿は中山道43番目の宿場、明治28年(1895)・大正15年(1915)
の大火で焼失しましたが、その後復元され現在の姿に還ることが出来ました。
宿場町を出て馬籠宿高札場の近くにある展望台から見えることから恵那山(2192m)
宿場を抜けると中山道は山の中へ、坂道は[十返舎一九]の句碑の側を通り
かつて馬方や牛方の宿として賑わった[峠の集落]を過ぎ、岐阜県中津川市と
長野県木曽郡木曽町の境にある馬籠峠(標高790m)へと続きます。
蔦の細道 [街道]
静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷:[蔦の細道]は丸子宿と岡部宿に挟まれた宇津ノ谷峠越えの
最古の道で、平安時代から豊臣秀吉が天正18年(1590年)小田原攻めの際に西側に
新しい道をを開くまで、約700年間にわたり官道として多くの人行き交った古道です。
峠は標高210m、勾配24度で歩きにくい石畳、道のりは1500m足らずですが、
万葉の頃から多くの旅人が利用したと思うと、当時の人々の健脚には改めて驚いた。
旧東海道や現在は国道1号のトンネルが貫通し一変しましたが永久に残したい道です。
五里峠 一番の観音様 [街道]
長野県飯田市上久堅:古来より秋葉詣りの道者や、遠山郷への物資を運ぶ人達は
小川路峠を越えて往来し、長い急勾配の続く坂道は街道一の難所でした。
飯田から上り三里下り二里で有ることから[五里峠]と呼ばれ、峠越えの人々の
道中安全と道標に随所に33体の石仏を置き、一番の観音様を麓に安置した。
飯田市千代に所在する[よこねの田んぼ]は、農林水産省の[日本の棚田百選]に
認定されており、約3ヘクタールに手入れされた110枚の棚田を一望出来ます。
千国街道 旧千國家住宅 [街道]
長野県北安曇郡小谷村: [千国街道]は、岩塩の無い日本で海で採れた塩を
内陸に運ぶため信州で最も代表的な街道で[塩の道]といい、各地に無数
有りますが、新潟県糸魚川から長野県松本まで(約130km)の旧道です。
かつて千国街道沿いには、物資運搬の牛方と牛が宿泊した何軒もの[牛方宿]が
ありましたが、明治20年頃に国道の開通と共にその役目を終え姿を消しました。
この栂池高原沓掛の旧千國家住宅の[牛方宿]のみが唯一現存しています。
この[塩蔵]は、牛方宿と共に千国街道に現存する建物で、街道の信州側の
入り口の大綱にあったものを、平成19年にここに移築復元したもので、
建築年代は不明ですが、幕末に建てられた物と考えれれています。
戦国夢街道 [街道]
遠州の小京都といわれる静岡県周智郡森町(もりまち)は、古くから遠江国(静岡県)と
信濃国(長野県)を結ぶ[塩の道]と呼ばれる街道が通り、山中一円の物資の交易や
集積地として、また古着の町としても栄え街道筋や路地裏に今もその名残を見かけます。
天正2年(1574年)徳川家康は、武田方天野氏居城(犬居城)を攻撃、あいにくの大雨により
気田川が増水し進軍出来ず、兵糧も尽き果てた為に余儀なく軍勢を引き上げる。
地の利を活かした天野軍の追撃を受け、命からがら逃げ延び[天方城]に辿り着きますが
一の瀬の地で、[鵜殿 藤五郎 光成]をはじめ多くの武将を失う負け戦でした。
三州街道 [街道]
相次ぐ台風の襲来と休日が重なり断念していたドライブ、久々の好天に恵まれ、秋を探して
伝統芸能の多い国道151号線、別名[花祭り街道]を北上、綴ら折れの新野峠を声
少し走ると、眼前に広がる新野千石平、遠方に僅かな朝霧を眺め一息。
長野県下伊那郡阿南町新野から、国道418号線を経て古くから信州と三河を結ぶ
三州街道と呼ばれた、国道153号線の治部坂峠を超えて、スキー場や温泉のある目的地、
治部坂高原に到着しましたが、紅葉にはまだ少し早く、ドライブの一日となりました。
塩の道 [街道]
浜松市天竜区船明(ふなぎら)に20年以上まえ、国鉄再建法により建設が中止された
幻の鉄道、佐久間線の橋脚を利用した5連の[夢の架け橋]は、[天竜相津花桃の里]と
伊砂のボートパークを結ぶ自転車通行可能な遊歩道です。
水窪(みさくぼ)町は静岡県の西北端に位置し、北は長野県と西は天龍川を
挟んで愛知県に接する、山に囲まれた広大な地域です。
長野県から南下する中央構造線が、街の北端の青崩峠を通り、翁川とほぼ
並行に走っていますが、これがかつての[塩の道]とよばれた
信州と遠州を結ぶ唯一の交通路でした。
この山間の過酷な自然環境下で、生活されてきた町内の多数の方々の
ご厚意により、収集された用品が[水窪町民俗資料館]に展示されています。
高根城(久頭合城)は、応永21年(1414)奥山金吾正定則ならびに諸士が
尹良(ゆきよし)親王を守護して、周智郡奥山に仮宮を設け
葛郷高根の城を築いたのが始まりと伝わっています。
元亀年間頃(1570~76)にかけて、武田氏が遠江侵攻戦を開始。
本城は、武田信玄、勝頼父子によって大改修され、国境を守る
橋頭堡とされたが、武田氏滅亡と共にその使命を終えました。
現在は本曲輪中心に、発掘調査の成果を元に、上屋敷構造物を含め復元整備されました。