乳峯山 慈廣禅寺 [神社・仏閣]
火防(ひぶせ)の神 [神社・仏閣]
鳳樹山 周昌院 [神社・仏閣]
光岩山 長楽寺 [神社・仏閣]
龍門山 石雲院 [神社・仏閣]
[直虎]の眠る寺 [神社・仏閣]
奥山半僧坊・哲学の道 [神社・仏閣]
応声教院 [神社・仏閣]
結願 [神社・仏閣]
宝積山(ほうしゃくざん)光前寺 [神社・仏閣]
尹良神社 [神社・仏閣]
青緑の鳳来寺 Ⅱ [神社・仏閣]
青緑の鳳来寺 Ⅰ [神社・仏閣]
五剣山 八栗寺 [神社・仏閣]
蹉陀山 金剛福寺 [神社・仏閣]
伊勢へ [神社・仏閣]
智満寺と千年杉 [神社・仏閣]
初山 宝林寺 [神社・仏閣]
秋葉山本宮秋葉神社 [神社・仏閣]
霊犬早太郎伝説 [神社・仏閣]
大体山 方廣寺 [神社・仏閣]
浜松市北区引佐町奥山に所在する、大体山方廣寺(奥山半僧坊)は末寺170ヶ寺を擁する
臨済宗方廣寺派の大本山で、井伊家の一族である奥山六郎次郎朝藤が後醍醐天皇の皇子
無文元選禅師(むもん げんせん ぜんじ)によって建徳2年(1371年)に開創された
禅寺で深奥山方廣萬寿禅師と称し、60ヘクタールの境内には
本堂・半僧坊真殿・三重の塔など60余棟の伽藍を擁する古刹です。
朱塗りの山門は、足利紫山老師の代に再建されたもので、正式には
空(くう)・無相(むそう)・無作(むさ)の三解脱を標識するもので三門というそうです。
建徳2年(1371年)に建てられた本堂は、数度の山火事による類焼をうけ消失、
現在の本堂は、明治38年から大正7年にかけて竣工されたもので、間口32m奥行き27mの
東海屈指の建物で、中央の大額[深奥山]は山岡鉄舟の書によるものです。
本尊は釈迦如来で脇侍(わきじ)に文殊と普賢の2菩薩が安置されています。
正平9年(1354年)に仏師[法橋院遵][法眼院廣][法印院吉]の3人によって彫刻された木像で、
元禄の頃に水戸の徳川光圀卿(黄門さま)の命により修繕したと背面に誌されている。
もとは茨城郡古内村の清音寺に祀られていたものを、明治末期に当山に移したと記されている。
明治14年の大火直後に三河の工匠により建てられた、権現造りの半僧坊真殿と
大正12年に建立された三重の塔
工匠岩五郎による一木彫りの上り龍と下り龍
若緑の鳳来寺 [神社・仏閣]
愛知県新城市の鳳来寺山は標高695m、1500万年前の火山の名残で
流紋岩・松脂岩・デイサイト等から形成されています。
5月には、仏法僧の鳴き声で全国に知られる、コノハズクが飛来し、木の上では
モリアオガエルが産卵を始め、全山が岩石や動植物の貴重な宝庫となっています。
芭蕉 来鳳300年
こがらしに 岩吹(いわふ)きとがる 杉間(すぎま)かな
夜着(よぎ)ひとつ 祈出(いのりいだ)して 旅寝(たびね)かな
芭蕉は、元禄4年(1691)10月23日、新城在住の太田白雪に
案内され、鳳来寺山に登山しました。
こがらしの句は、芭蕉がセイバシという所を通った時、即座に詠ぜられた。
夜着の句は、仁王門に差し掛かった頃、持病が激しく痛みだし
やむなく下山、生憎この日は、鳳来寺の秋祭りでどの宿も満員、
無理に頼んで泊めてもらった宿屋の部屋は、風が吹き抜け布団も粗末、
弟子が夜道を帆走し、寺から夜着を1枚借用した時の句です。
鳳来寺は鳳来寺山の山頂付近にある、真言宗 五智教団の寺院で
大宝2年(702)に利修仙人が開山したと伝えられている古刹で、
参道の石段が1425段あり、うっそうとした杉木立に囲まれた仁王門は、
3代将軍徳川家光により建立され、国の重要文化財になっています。
鳳来寺表参道沿いの 旧門谷小学校は、廃校から10数年経過し
現在は[東海市山の家]として、綺麗に整備されています。
こんような素晴らしい環境で育った子供達を羨ましく思いました。
萬松山 龍潭寺 [神社・仏閣]
浜松市北区引佐(いなさ)町井伊谷の萬松山 龍潭寺(りょうたんじ)は、天正5年(733)
行基菩薩開創、八幡山 地蔵寺に、始まると伝えられています。
寺の南に井伊氏祖共保公、出生の伝説を残す、八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、500年前井伊氏がこの地に
龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。龍潭寺は井伊城南の
守り砦の役目を果たした歴史があります。
井の国を本拠としていた井伊氏は、平安時代より室町時代まで、遠江の代表的
国人領主として西遠地方を治めてきました。
井伊介を名乗り、鎌倉幕府に仕えて南朝方の皇子 完良親王(むねながしんのう)
を迎え北朝軍と戦い、室町時代今川軍が遠江に侵攻すると
果敢に立ち向かいましたが敗れ、戦国時代に入ると井伊家は受難の連続で
今川義元と共に出陣した、井伊家22代直盛は、桶狭間で戦死。
元禄5年に養子直親(なおちか)は今川の手で殺害され、やむなく龍潭寺南渓和尚は、
直盛の娘を[女性地頭]に立て、井伊家の急場をしのぎます。
元禄11年、徳川家康が遠州に侵攻、井伊谷を平定します。
天正3年、井伊家24代直政は、浜松城で家康に仕え見事に井伊家を再興しました。
堂内鶯張りの廊下、甚五郎作の龍の彫刻を見て、本堂裏の庭園に出る。
小堀遠州作の龍潭寺庭園は、東峰・中峰・西峰の3つの築山を設け、
東西に心地池が流れ、数多くの石組みによる枯滝が配置されています。
蒲郡・竹島 [神社・仏閣]
国の天然記念物に指定されている蒲郡のシンボル[竹島]は、標高22m・周囲約680m・
面積1.9haで、対岸と387mの竹島橋で結ばれています。
島の中央には、日本七弁財天の一つで開運・安産・縁結びの神を
祀った[八百富神社]があります。
八百富神社は[市杵島姫命]を祀る神社で養和元年に、藤原俊成卿が三河の国司
として在任中、1181年に琵琶湖の竹生島より勧請し
創立され800年をこえる歴史をもちます。
城郭風の外観の蒲郡クラシックホテル
弘法山頂の[三河高野山金剛寺]には、三谷の弘法さんと親しまれている、
高さ31mで東洋一の子安大師像あります。
[マニ車]は側面にマントラが刻まれており、内部には
ロール状の経文が収められています。
富士山本宮浅間大社 [神社・仏閣]
静岡県富士宮市宮町の[富士山本宮浅間大社]は、大同元年(806年)に建立され
日本国内に1、300社ある浅間大社の総本宮です。
富士山を御神山とし東海地方最古の名社で奥宮は富士山頂にあります。
楼門の左右に随身が安置してあり背銘に慶長19年(1614)
の年号が書かれています。
浅間造りと呼ばれる社殿は、徳川家康の寄進によるものです。
国指定特別天然記念物の[湧玉池(わくたまいけ)]は、霊峰富士の
雪解け水が、溶岩の間から湧き出るもので、水温は摂氏13度、
湧水量は、1秒間に3.6キロリットルで年中殆ど増減はありません。
[桑木野の大家]といわれた稲葉家は、桑木野地区の中心的家柄で
建築時期は18世紀前期と考えられ、
富士市に現存する古民家では最古のものとなるようです。
久能山東照宮 [神社・仏閣]
静岡市駿河区根古屋の久能山(くのうさん)には、推古天皇(592~628年)の頃
久能忠仁(ただひと)が、建立したと伝えられた久能寺があり、
多くの名僧がここを往来し、隆盛をきわめました。
下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は、久能寺を現在の
鉄舟寺に移し、ここに久能城を築いたが武田氏の滅亡とともに、
徳川氏の領有するところとなり、家康薨去(こうきょ)後その遺言により
ここに葬られ、二代将軍秀忠により社殿が造営されました。
我が国最初の東照宮で、本殿・石の間・拝殿が国宝に指定されています。
駿河湾を眺めながら1159段の石段を登ると聖地東照宮
鮮やかな色彩の楼門・鼓楼・神倉
国宝の本殿と拝殿
静岡市清水区三保の松原は砂嘴(さすい)と呼ばれる一種の半島で
羽衣の伝説のある白砂青松の景勝地です。
世代交代により平成23年に新しいシンボルとなった[新羽衣の松]と初代
湖北五山・摩訶耶寺 [神社・仏閣]
静岡県引佐郡三ヶ日町摩訶耶(まかや)に所在する大乗山宝池院 摩訶耶寺(まかやじ)は、
神亀3年(726)聖武天皇の勅願時として、行基菩薩により開創された静岡県
最古の古刹の一つであり、1632年(江戸時代)に再建された本堂は入母屋、
総ケヤキ造りで格天井には、法橋関中(ほっきょうかんちゅう)の筆による、
350年前に描かれたとは思えない色彩色の花鳥図が配されています。
宝物殿には国指定重要文化財のヒノキの一木彫りで凛々しい姿の不動明王像、
唇に朱色を留めた気品が漂う千手観音像と県指定重要文化財の
円満な美しい顔立ちの阿弥陀如来像が平安初期の典雅な趣を今も感じさせます。
昭和43年の学術調査の結果、1240年頃に作庭されたものと推定された摩訶耶寺庭園は
東日本では珍しい中世庭園を代表する、県下最古の庭といわれています。
天平の杜・府八幡宮 [神社・仏閣]
静岡県磐田市中泉に所在する[府八幡宮]は、天武天皇(673~686)の曽孫、
桜井王が天平年間(727~748年)に、遠江の国の国司として着任した時、
国府の庁内に勧請されたのが始めであると伝えられています。
楼門は徳川三大将軍家光の時代、寛永12年(1635)に建造され
現在は県指定文化財で屋根はこけら葺きです。
明治元年(1868年)に廃止された神宮寺の築地塀も1部残っています。
桶ヶ谷沼(左)と鶴ヶ池(右)
桶ヶ谷沼は、平地性淡水沼でトンボの種類の多い事で全国的に有名です。
鶴ヶ池は、桶ヶ谷沼と森を挟んで隣接し、ジュンサイやオニバス等
水性植物が多く、その昔 源頼朝が兄朝長の菩薩を弔う為に
黄金の札を付けた鶴を放った事が名の由来とされています。
元善光寺 [神社・仏閣]
長野県飯田市坐光寺の[定額山 元善光寺]は、今から1,400年前推古天皇10年に
本多善光卿によって開山されたと伝えられている。
善光卿は麻積(おみ)の里の出で国司に随って都に上り、難波の堀江で一光三尊の
如来に巡り会い、これを背負って故裡に帰り臼を淨めて安置し奉った。
41年を過ぎ、第35代皇極天皇2年勅名により、本尊は芉井の里に
還され今の長野善光寺がそこに始まりましたが、この時
同じ一光三尊仏を造ってこの地に留められ元善光寺と呼ばれるようになった。
善行寺の名は本多善光卿の名に基き、元善行寺の元は[本元]の意で
古来より善光寺に参詣するだけでは片参りになると伝えられてきた。
遠山郷土館 和田城
遠山郷の領主遠山氏は多年居住していた名古山長山城からこの地に移り
天文の末頃(1550)和田城を築城しましたが、元和3年(1617)家督相続
の縺れから、[家督不取り締り]のかどで改易となり幕府直轄領となった為
武家諸法度[一国一城令]により和田城は廃止になりました。
その後慶安元年(1648)徳川家光より龍渕寺へ朱印地として下付され
慶安4年(1651)以後寺の境内地となっていました。
天空の里
飯田市上村下栗地区は標高800m~1,000m、最大傾斜38度の急峻な
地形に位置し、点在する耕地や家屋は遠山郷を代表する景観で、
[日本のチロル]と呼ばれ南アルプスを望む景観は素晴らしく
日本の里100選にも選ばれました。
千古の神山・本宮山 [神社・仏閣]
愛知県の豊川市、岡崎市、新城市にまたがる本宮山(海抜789m)の山頂付近に、文武天皇
大宝年間(約1300年)以前より砥鹿(とが)神社が鎮座しています。
この地には古代祭祀遺跡[磐座(いわくら)]が点在し
昔から神祭りが行われていたものと想起できます。
太古より保護された神域の自然林は1千年近い大木が林立し、繁茂した
草木と共に愛知県天然記念物に指定されています。
岡崎市内の中心を流れる乙川の支流である男川の源[くらがり渓谷]は
美しい天然林と、その間を縫って流れる清流が見事に調和し、
絶妙の自然美を創りだしています。
渓谷沿いにはバンガロー村やキャンプ場、コテージが整備され
マス釣りやマスの掴み取りを楽しむ事ができます。
本宮山の麓のほのぼのとした里山[ぬくもりの里 和田]